40年前に採ったミドリシジミの標本。このヘタクソな展翅が,そのまま私の大切な思い出です。
ゼフィルス,というのはチョウの一群の俗称です。でも我々虫屋(昆虫愛好家)には,単に昆虫の名前という以上の,たくさんの記憶,息遣い,そして郷愁を呼び起こす言葉です。
ゼフィルス,それはギリシャ神話の西風の神。その名を学名の「属」の名称としていただいたのは,美しい金緑色の翅をもつ一群のシジミチョウの仲間でした。分類研究が進むとともに属は細分化され「ゼフィルス」の属名は無くなりましたが,他のシジミチョウとは形態的,生態的に明らかに独立したグループであるため,その全体を示す通り名として今に残っています。正式にはミドリシジミ類と呼ばれます。
十年以上前,3度の冬をゼフィルスの卵探しに出歩いたことがありました。ゼフィルスは卵で越冬するという共通の特徴を持っていて,成虫より採集が容易であることから,ゼフィルスの越冬卵探しは虫屋さんたち定番の冬のフィールドワークなのです。そしてその時見つけた何種かの越冬卵の写真をどこかで発表できればと準備していたのですが機会なく,写真フォルダごとお蔵入りしていたのを思い出したので,今回晒させていただきます。
最初にお断りしておきますが,「ゼフィルス」「卵」で検索していただければ美麗にして精緻な写真がいくらでもヒットします。私はこういうプロ級の方々に張り合おうという気は毛頭なくて,本当に10年以上前のシロート写真です。備忘録です。種類的にも,茨城県に産する種のごく一部しか紹介していません。ご理解ください。
というわけで。
せーの
どん
半径1キロ以内に人のいない山中で遊ぶのは楽しいなあ💛
手にした高枝切りバサミが卵採集の必需品です。ゼフィルスの卵は,多くの場合樹木の枝先に産み付けられているから。
① ウラゴマダラシジミ
もっとも原始的なゼフィルスとされます。だからということもないんだろうけど,なぜ麦わら帽子型なんだ。どういう必然性があるのだ。
産卵位置。イボタノキの幹に数十個固めて産み付けられることもあります。
成虫。へろへろと飛ぶので採集しやすい。
② ウラキンシジミ
成虫は薄暮から夜間に活動。私,成虫見たことありません。樹皮の滑らかなマルバアオダモの,わずかに亀裂があったりするその場所に産卵するので探しやすい。卵は固めて「卵群」として産み付けられることが多いです。
産卵位置。
オニグルミを食べる変わり者。基本は高地のチョウなのですが,標高400メートルという破格の低標高地に産地を見つけました。卵の表面の△型の突起が不思議です。
産卵位置。
全ゼフィルス中の最普通種。沖縄・離島を除くほぼ全国に産します。なのにわざわざ飼育してしまった。
こんなの。
産地が安定しないチョウ。今年採集できた場所に,翌年も卵があるとは限りません。きっとメスには放浪癖があるのでしょう。山地性のイメージがありますが水戸でも採集しました。
飼育中の幼虫。独特の文様があります。
この時は無事に羽化しました。
⑥ ミドリシジミ
湿地のハンノキに群生します。中学生の時に見た,何千何万という金緑色に輝く成虫の大群飛を私は生涯忘れません。
十円玉と。どれだけ小さいかわかります?
野外の幼虫。
全国的には希少な種なのですが,茨城には水戸をはじめ各所に産地があります。
産卵位置。
成虫。一緒に採集に行った先輩方,お元気だろうか。
⑧ オオミドリシジミ
ファボニウスという青緑色の翅をもつ一群の中で唯一,低地に普通に産します。とはいえ漂泊の民で,ここかと思えばまたあちら,産卵地が動き回ります。
道路の傍らのこんなところに産卵してあります。
タマゴコバチに寄生されて食べられちゃった卵。……よく見ると,ダニの足が出ています。ねぐらにしているのでしょう。ミクロの世界の間借り人。
40年間オオミドリシジミとして標本箱に収まっていたのですが……よく見たらなんか違う。同じファボニウスのエゾミドリ?
⑨ ジョウザンミドリシジミ
高地のミズナラを食する山地性の種。茨城ではかなり高いとこに行かないとお目にかかれません。というかわし成虫見たことない。
⑩ フジミドリシジミ
ブナを食する特殊なゼフィルス。湿潤な日本の気候に適応したブナとともに進化した日本特産種。わりと低標高地にもいるという話もあるのですが……。恐らくはブナの分布に左右されるのでしょう。
おまけ① ムラサキシジミの卵。ゼフィルスではありませんが,コナラの木に付いていたのでそう思い込み,図鑑と無駄ににらめっこしました。幼虫の脱出孔開いてます。
おまけ② ミヤマカラスシジミの卵。クロウメモドキという湿地を好むマニアックな木に付きます。カラスシジミ類は,ゼフィルスにごく近縁の仲間です。
おまけ③ さあこりゃなんだ。同世代の人には「甘食パン」で通じると思うけど。同じクロウメモドキに付いてました。この妙な質感といい,ぜひとも素性を知りたい謎の卵です。
おまけ④ 冬の昆虫採集の定番,エノキの根元の越冬幼虫たち。大きいのがゴマダラチョウ,小さい2匹が国蝶!オオムラサキ。水戸ではちょっと郊外に出れば生息しています。秋に食樹エノキを降りてその根元の枯葉の裏で冬を過ごし,遠い春を夢見ます。
直径わずか0.7ミリほどのゼフィルスの卵たち。母蝶たちはこのささやかな命を祈りながら一つ一つ食樹に託していったことでしょう。子供たちはその命をこの小さな小さなカプセルに封じ込め,低温で乾燥する茨城の冬を耐え,光あふれる季節を待ちます。食樹の芽吹きとともに目覚めた幼虫は,葉が固くなる初夏までに急速に成長し,蛹になり,羽化し,戦い,恋をして,またその命を小さな卵に託します。何万年も続く生命の営みが,ここ茨城の森でも繰り返されます。
森の蝶,ゼフィルス。その美しさ,その希少さが多くの昆虫少年・中年・老年の心をつかんで離しません。虫屋の誰もが,何かしらゼフィルスの思い出を持っています。藪の草いきれの中で汗だくになって網を振ったよなあ。あの時採ったのはどの標本箱に入れたろうか。遠い産地に遠征したっけなあ。あの時には亡き友がまだ元気だったよなあ。仲間と戦果を競い合ったけど,もう自分しか残ってないなあ。
そんな数々の思い出とともに,ゼフィルスは男たちの夢の空を今も飛び続けています。