県北山地のサクラスミレ
サクラスミレ。人呼んでスミレの女王。私の庭に,春になっても姿を見せてくれませんでした。私が忠誠を誓った漂泊の女王は,誰にも告げずに,遠い世界に旅立ってしまったようです。
水戸でサクラスミレというと,60年前の文献に記録があるだけでした。だから2012年に市内のフィールドでスガれた色の花を見つけた時,それは驚いたものです。サクラスミレらしくない小さな花,それは茨城の低地に取り残されたサクラスミレ共通の形質。人々が去った後に一人残された女王というところでしょうか。それが雑踏の中でひざを抱えてうずくまるように,春の野の植物たちの中にそっと咲いていたのです。
その夏,あろうことか除草剤が撒かれました。道の傍らの必然でした。秋になって葉を出したのをみてほっとしましたが,ここが安全な土地でない事は明らかです。野の花を掘り取るのは私の哲学に反するのですが,最後の女王をお助けすることに躊躇はありませんでした。
女王にお移り頂いたのは庭の隅,とりあえず日照は確保され,地味も豊かな場所です。気難しいイメージのあるサクラスミレですが,この落魄らくはくの女王は落ち着いた環境をそれは喜んでくれたようで,次の春には早速花を見せてくれました。小さく貧相な花ですが,彼女のこれまでの境遇を想えば仕方のない事。私も精いっぱいお世話して差し上げようと考えました。
株は年々大きくなり,花数も増えました。宿敵・ツマグロヒョウモンの幼虫に葉を食べられてしまうこともありましたが,極力薬品を使わず一匹一匹退治したものです。葉がボロボロになっているのでよく見たら,オンブバッタの子供にびっしりと取りつかれていたなんてこともありました。種子を飛ばすのですが発芽率は悪く,でも地下茎を伸ばして子株を作り,新たな王国づくりに余念がないように見えました。
でもこの春。いつまでも葉が出ません。冬のあいだ踏まれないようにやぐらを組んでいたその下から,あの毛深い葉が姿を見せないのです。よく見ると株そのものがありません。親株のみならず子株まで。何があったのか。もともと山地性の種です,この冬の寒さが原因とは思えません。昨秋も遅くまでちゃんと葉を付けていて,衰退の色はありませんでした。でも,あの落魄の女王は,それこそ風にさらわれるように跡形もなく消え去ってしまったのです。
スミレは宿根草で,毎年地下の株から芽を出します。宿根草というと永遠の命を持つようにも思えますが,特にスミレでは十年物というような大きな株は,そういえば見たことがありません。以前ある野原で一面にコスミレが咲いているのに出くわして,次の年の春にカメラを持って再訪したら一本残らず消滅していて驚いたことがあります。ひょっとしたらスミレの株には寿命があって,ある時そっと消え去って,次代にこの世界を譲るようなシステムなのかもしれません。
いずれにせよ,私が献上したかりそめの宮殿から女王は去っていきました。跡形も残さずに。それはもう見事な去り際でした。
スミレの女王,サクラスミレ。どうやら私の庭は,女王の安住の地たりえなかったようです。
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