しばらく温めておいた天鏡閣てんきょうかくをご覧に入れたいと思います。
入り口からこれ。心奪われます。猪苗代湖畔はちょうど紅葉の頃でした。
外観。決して豪壮ではありません。むしろ明治末の,西洋文化が一通り消化され日本人の血肉となっていた時代の落ち着きがあります。
現在の来館者の入り口。
入るとすぐに使用人用の階段があります。実はこういうところに古いにしえの良き時代のにおいを感じるんです。
食堂,
のタンスの意匠。こういう洋館では食堂と客間は重要な位置づけだったそうで,細部まで見逃せません。
客間。
大きな鏡の上端には有栖川宮家の紋章。
シャンデリア。
凝った意匠の暖炉。寒い土地ですので各部屋はもちろん廊下や階段にまで暖炉があります。
撞球室,今で言うビリヤード。この時代には広く行われていたようです。
この照明! 盤面に影を作らないためのものだと。
点数盤に
キューケース。さぞ雅な姿でゲームが進められたのでしょうね。
各部屋には使用人呼び出しボタンが。
チリリンかジリリンか知りませんが,1番さんから4番さんまでお召を待っていたのでしょう。
今でも使用人を雇っているお屋敷はいっぱいあることでしょう。でもたぶん,主人はオレはおマエをカネで雇っているんだぞと威張り,使用人はスマホでサボるチャンスを窺いながら面倒くさそうに従う。そんな金銭での契約関係だと思います。でもここで働いていた人たちは,高貴な主人を尊敬し,働くことに誇りを持ち,呼ばれることを心待ちにし,裏階段を小走りに移動する。暗いうちに起きては屋敷中の暖炉に火を入れ,湯を沸かし,テーブルを整える。主人も使用人たちを信頼し,その仕事を一片も疑うことなくその奉仕を受け入れる。そんな穏やかな日々が静かに繰り返されたことでしょう。古き良き時代。
威仁たけひと親王。有栖川宮第十代にして最後の当主。この館のあるじです。海軍軍人の肩書を持ちますが,むしろこの時代の学究の徒のような繊細な印象を受けます。よく大正天皇を補佐したとか。
系譜。なんと水戸徳川家とつながりが。有栖川宮家は後陽成天皇をルーツに持ち,1625年から十代続きました。多くの芸名,筆名に使われる「有栖」の原典ですが,命名の由来は不明とか。威仁親王には嫡子がなく,孫娘が大正天皇の子宣仁親王の妃となって高松宮家を創設,有栖川宮家は断絶しました。残された天鏡閣は福島県に下賜され,県が整備して今に至ると。…… 歴史あり。
階段。見りゃわかるって? でもここを行き来した人々を想像すると趣は深くなります。本当にそういう血筋の人とその係累の方々です。家の豪華さを誇るような今どきの成金と並べられるものじゃない。でもかつてのそういう連中が高貴な人の趣味を真似て大正から昭和初期の瀟洒な洋風住宅につながるのですから,文化とはどんな形であれ継承されてこそなのだと理解します。
ドイツ皇太子の結婚式に招かれた一行。伊藤博文とかいます。
ご寝室。
付属の洗面所。
トイレ。ちゃんと洋式・水洗。
お風呂。
階段下の小部屋って,隠れ家にしたくなりませんか。
御居間。凝った天井の陰影が見事です。
客間のテーブルの寄木細工。
この階段は
ぐるぐる登って
最上階の展望室へ。
快晴の空に,磐梯山が笠雲を被っていました。
庭の銅像は少しいかめしく。
ああ,ステキな洋館でした。
庭にある売店で地元牛のメンチを頂きました。美味でした。ちなみに平日で人がおらず,受付のお姉さんが飛んできて揚げてくれました。ご馳走様です。
今頃は雪景色の中なんだろうなあ。
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