呼ぶ声があります。
森を覆う緑の霧の向こうから。谷川を満たすガラスのさざめきの中から。
それは憐みを乞うでなく。戯れにはやし立てるでもなく。
その日、魂が吸い上げられるような藍銅色の空を見て、気付けば普段訪れることも稀な市内の古い住宅地を歩いていました。そして家々の隙間に、車に乗っていてはまず気付かないであろう小径、それは市街地の中の小さな谷間、傾斜地ゆえに建物がない草っぱら、申し訳程度に幅50センチほどコンクリート舗装のある、街灯一つない隘路でした。躊躇とか葛藤とかの理性的な精神活動はなく、さながら本能の指示に身体が一連の反射行動を起こすようで、ごく自然に足が進んで行きました。
入り込んでみると、住宅地の道なのにどの家からも視界がありません。こちら向きの窓が無かったり、木々に隠されたり。そもそも、道なのにまるで人間の匂いがしない。街中にすぽんと開いた異空間です。思わず何だここはと呟きます。
そして見つけてしまいました。
いつもの私ならええええっとか叫んですぐブログ記事の文面を考えるところです。でもこの時は冷静でした。コンパクトカメラ「権三さん」で記録を始めます。
ゼンテイカの新産地を市内に求めていたのは事実です。しかしこんな街中での遭遇は想定外でした。…… これはアレだな、呼ばれたな。私の人生の折々にあって、このブログでも花や鉱物との邂逅にそんな言葉でご紹介してきたアレです。人との出会いならユングの共時性偶然という解釈もできますがこれは少し違う。山や海や自然の中で生涯をすごしてきた方、同じような経験はありませんか。そこにあるものたちに呼ばれるという、自然への畏敬あってはじめて得られる経験です。
間違いなくゼンテイカです。花色や草丈から栽培種ではないと判断できます。この傾斜地に点々と生える様子はヒトの植栽とも思えない。この市街地に野生の群落が。
でもこの日はこれで終わりませんでした。さらに歩を進めた先に
林縁などに生えるつる性木本。5~6月、薄紫から白色の大輪の花を咲かせる。花びらに見えるのは萼片がくへんで、通常8枚が平らに開く。シーボルトによってヨーロッパに紹介され、園芸クレマチスの重要な母種となった。
かつては日本全土に産したが園芸的価値が高いゆえ乱獲され急速に減少。現在国内に知られる産地は30箇所。
ゼンテイカ以上に動揺しました。私を呼んだ者があるとすればこいつです。なぜ呼んだ。知らなければ平穏でいられたものを。
ただ1箇所、道の傍らのここだけ。掘ってくださいとばかりのロケーション。園芸ジジイに見つかれば最期です。開花期という微妙な時期に掘り取られ、合わない環境に移され、弱り、見捨てられ、枯死する運命です。さあ大変なことになった。
翌日は雨。雨だろうが雪だろうが、もう心配でいられません。異常はないか、不審な人間はいないか、掘った跡はないか。
女性を美しく撮る小道具の一つが「水」だそうですね。ゼンテイカは雨粒を真珠の珠に変える魔法を持っているようです。
カザグルマは雨が苦手。この薄く大きな萼片が水を吸ってしまうらしく、これは我が家のハマナスと同様です。
ゼンテイカは一日でしぼみますがカザグルマは長寿、ただし虫に食われやすい。次第にぼろぼろになります。
そして翌日は曇り日で…… と、キリがありませんね。なるべく毎日、無理でも二日と空けずに様子を見に行きました。何のことはない、不審者は私です。
不思議なのは、都合10回以上見に行ったわけですが、一度も他の人間に会うことがありませんでした。市街地なのに人の通わぬ異空間。私のフィールドには、ツクツク森を始めいくつかこういう場所があります。そういう場所だから? そういう場所ゆえに? 呼ばれた意味に勝手な注釈を付けるのはやめておきます。とにかくパトロールは続けました。
ゼンテイカの花数は日に日に増えていって。
ゼンテイカの魅力は、群生して観光客を喜ばせるよりむしろ、この一つ一つの端正な花姿だと思います。
カザグルマの開花数は十個。これがすべて散るまでは気が抜けません。
夏の高原ではありません。初夏の水戸です。
最初の邂逅から3週間、ようやくカザグルマの花期が終わろうとしています。ゼンテイカも含めて、とりあえずこのシーズンは二つの花を守り切った気分になりました。ゼンテイカの方は見られたにしても植栽と思われたか、夏に咲く同じワスレグサのヤブカンゾウと混同されたか。いずれにせよ私は口外しないでおきます。ニッコウキスゲと知られたくありません。
この記事は、二つの花の花期が終わるまで公開を控えました。クレマチスや他の記事で思わせぶりに引っ張ってごめんなさい。とにかく今回は場所を特定されぬよう細心の注意を払います。それでも場所の当たりがつく水戸近郊の方、どうか「秘するが花」でお願いいたします。こんな記事書いといて何ですが。
五年後、十年後、百年後でもこの地に同じ花が咲いていますように。
↓ よろしくお願いいたします。