掌編です。
職場から持ち帰った本や荷物が片付きません、半年経つのに。庭の小屋に段ボールがまだいっぱい。
とにかく家の中にスペースを作らねば。それにはまず捨てること。書庫の本棚、何か捨てられるモノは……
あった。
さあこれは何か。お若い読者の皆さんわかりますか。これは百科事典というものです。そういう言葉は知っていても、本の実物を手に取ったことはないでしょ。
昭和元禄総中流時代、俺って中流?なんて思った庶民は、家の本棚に箔を付けるために大枚叩いてこんな大冊のブツを買いました。中身には、50音順にこの世のあらゆる事象が並べられ、それについて解説が書かれています。まあ、今の世で例えるならウイキペディアを紙の本にしたものかな。各出版社が総力を挙げて作り、社会問題になるほど強引に売りまくりました。巻数は出版社ごとにいろいろ、庶民はその財力に合わせて選んだものです。我が家は全8巻の小学館、1965年刊。まあ妥当なところかな。
で、どこの家でもほぼ無用の長物と化しました。昼寝の枕に重宝した、なんて話まであるくらい。我が家でも、父がこれで調べものをしている姿なぞ見たことはありません。主にこれを開いたのは、小学生だった私。
これは固体ルビーレーザー発振の図解。ノートに書き写したっけなあ。原理なんかわからなくても、とにかく未知の知識に興奮しました。
当時のミサイル一覧。1つを除いて米軍のものです。もちろんこれもノートに。知らない事物、耳に新しい言葉、そんな「知識」を身にまとう喜びを、きっとどなたも感じたことはあるはずです。子供は子供なりに、そして見栄でブリタニカ国際大百科事典全18巻を揃えた大人も、みな知識を欲したんです。たとえ開く機会は無かろうとも、この世の知識をすべて封じた書物が手元にあるというだけで、単なる所有欲以上のものがあったと思います。
でも。
おわかりでしょうか、書物ゆえの欠点が「紙の百科事典」にはあることを。そう、出版されたその瞬間に、もうその内容は時代遅れになってしまうんです。百科事典の編纂には10年以上の時間がかかりますから、もう編集段階で使えなくなる項目もあったことでしょう。世に出た時には過去の知識になっている。常に最新の内容に更新され続けるWeb事典との決定的な違い、かつ欠点です。
書棚から降ろした小学館をぱらぱらめくって目に留まったのがこの写真。北朝鮮・ピョンヤンの風景です。たぶん1960年代初頭のものでしょう。
項目名は北朝鮮ではなく「朝鮮」。この当時の雰囲気が伝わりますね。この頃は産業や経済で韓国を上回っていたので、書かれる内容もなにかのパンフレットを丸写ししたような、この世の楽園とまでは言わずともいかにそれが素敵な国かを力説します。対する韓国の扱いは、政情不安もあってごく短く軽いものでした。百科事典とはかくの如く歴史資料にはなっても「知識」としては瞬く間に陳腐化するものなんです。作った人、やるせないなあ。
世界は回る。その瞬間その刹那を人の心に刻みつつ、その時には事実であったものを単なる歴史として活字に残しつつ、人の世はかたち定まらず諸行無常で回ります。変わらぬものは星辰のことわり、大地の営み、生命の連続。それすらも人は次々と時代ごとに違う解釈を与えていきます。もう私は世に追随しません。やりたい人がやりなさい。
さて問題は、この小学館の百科事典、いかに父に気づかれずに資源ゴミに出すかということ。私以上にモノにこだわる昭和ひとケタ95歳であります。手強い。
↓ そこをなんとか。