新聞もテレビも、世界の混乱を報じています。現実こそ狂気。それをただ傍観するしかない私たち。
いにしえの中国には、乱世の現実を離れ竹林で清談にふける賢人たちがおりました。私たちもそのひそみに倣い、夢に生きた男 ドン・キホーテ の物語などいかがでしょう。
ドン・キホーテ。セルバンテスの手になるこのスペインの大ロマンは、岩波文庫で正続全十巻に及ぶ冗長さやら、まるでストーリーと関係のない劇中劇が語られるやらとにかく読みにくい。そこでその核心である夢に生きることの大切さを切り出し、一編のミュージカルに仕立てたのが「ラ・マンチャの男」です。

その映画版(1972)をベースに文字に起こしてみました。
登場人物
セルバンテス / キハーナ老人 / ドン・キホーテ
召使い / サンチョ・パンサ
囚人の女 / アルドンサ / ドゥルシネーア
牢名主 / 宿屋のあるじ
侯爵 / カラスコ医師
アントニア、刑吏、ほか
♪(楽曲名)
貴族の身分を持ちながら零落し、今は旅芸人に身をやつすセルバンテス。上演した劇の内容が教会への冒涜とみなされ、召使いと共に捕縛される。
有罪なら火あぶり、その宗教裁判までの待機場所として堕とされたのは古城の地下牢。そこには重罪を犯し、今は刑の執行に怯える囚人たちがひしめいていた。
身分だけは高貴なセルバンテスをいいなぐさみものと考えた牢名主は、この場でも彼を被告に裁判を開くという。そこでセルバンテスは、書き上げたドン・キホーテの物語を囚人たちに役を当てた劇に仕立て、自らの身の潔白を証明すると提案する。
私は!ある男になります。名前は、アロンソ・キハーナ。
もはや若くはない田舎紳士、隠居して読書三昧の毎日。昼となく夜となく古今の書物をひも解き親しむうちにその影響少なからず、やがてこの世の乱れに対して義憤を禁じ得なくなった。
何たることだ! 今の世の中を見ろ。まさに悪は栄え驕り、善は滅びる一方だ。偽善と欺瞞がはびこり、真実と誠実はその陰に隠れる。彼は思い煩い思い悩み、悩んで悩んで悩みぬいた挙句、ついにその思考は行き詰った。
そこで彼は、正気なるが故の苦しみを捨てた。そして途方もない計画を考えついたのだ!
つまり!遍歴の騎士となり、諸国武者修行の旅に出る。冒険に挑み、悪しき者を正し、強きをくじいて、弱きを助けよ! これが使命だ、いざゆかん!
供はサンチョ・パンサ。近所の小作人で、正直者だ。暮らしは極めて貧しいが、心根は卑しくない。あいつを従者にしよう。馬は年老いた荷馬車馬、これをロシナンテと呼べば立派な騎士の馬だ。古い甲冑も念入りに埃払って身に着けてみれば気持ちが引き締まる。もはや田舎紳士のアロンソ・キハーナではない! 恐れを知らぬ花の騎士、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャだ!
♪ 我はドン・キホーテ
(城と思い込んだ宿屋で)
おお…… これは、この方こそ……
姫君、麗しき乙女…… まばゆいばかりの美しさ、まともにお顔を見ては、この目が盲いてしまいます。
…… ワイン持ってくるから。
姫君、あなた様が給仕女の真似などなさらなくても。それより、お名前を。
アルドンサよ。
何をまたご冗談を。
アルドンサ!
しかしそんなメイドのような名前では似つかわしくございません、あなたには。
だけど本名よ。さぁさどいてどいて! 仕事の邪魔だよ仕事の!
…… 姫君はわたくしをお試しになっている。わたくしの忠誠心を問うのならば、身も心も捧げましょう。悔いはござらん。
♪ ドゥルシネーア
(宿屋の中庭での独白)
さあて、のちの世の賢人がこの歴史的な一夜を描写するとなればさしずめこうだな。
久しく輝いた太陽も今や引きこもり、ラ・マンチャの城門城壁は闇に沈んでいる。
ドン・キホーテは気高きその横顔を見せ、巨大な城の中庭でその夜不寝番に立っていた。
…… ああ、何という自慢たらしいことを。よりによってこの私が自惚れるとは!
ドン・キホーテは一つ大きな息をして、人生いかにに生くべきかを考えた。
おのれの魂に呼びかけ 良心に従い 今のみならず未来のおのれも愛すべし
楽しみ喜びを追うなかれ 追えば往々にして災難も不意打ちがある
常に先を見よ! 去年の鳥の巣を覗いても 今年の鳥の姿はない
すべての男に公正に すべての女に優しく
行け! かの姫の面影を胸に抱いて武勲を立てよ!
ドゥルシネーア……
立ちなさいよ! 立って!
これは姫君……
(被るように)なんで姫、姫って言うのよ。
姫君ではございませんか。
あたしはアルドンサよ。
あなたはよく存じ上げています。
ウソおっしゃい、知るもんですか。
いいえ前から存じてます。その清らかなお心も、姫はわたくしの胸の中におられました。
胸の中なんて、そんなのアテにならないわ。
いいえ! 確かなものでございます。女は男の命です。その輝きが行く手を照らします。女性こそ、光なのです。
何をしろっていうの?
何も。
嘘。
お願いがございます。叱責は覚悟の上です。
(被るように)ほら見ろ!
お仕えすることをお許しください。面影を胸に抱いて戦います。勝利の栄光はあなた様に捧げ、負け戦には励ましをいただき、ついに命を落とす時は聖なるドゥルシネーアの名のもとに潔く散ります。
…… もう行くわ、ペドロが待ってる。…… ね、どうしてそんなことするの?
そんな、とは?
バカなマネばっかりしてるじゃない!
私は鉄の世の中を変えて、黄金の世界にしたいのです。
この世は腐っている。あたしたちはその中のウジ虫よ。
滅相な。心にもないことをおっしゃいますな。
心にも大あり。そう思ってるから言ったまでよ。ドン・キホーテさんとやら、バカやっていると命を縮めるわよあんた。
恐れはしません。
どうして?
クエストさえできれば本望です。
(ペッ)まだそんなことを!(行きかけて)…… なんなんだいそれ、クエストって。
騎士の冒険の旅です。使命です。いや…… 特権なのです。
♪ 見果てぬ夢
(刑吏たちが降りてくる。セルバンテスの呼び出しかと思われたが、別の囚人が連れ去られる)
…… まあ良かったな。しかし現実と幻想の間には違いがあることがわかったろう。早い話が、ここの囚人と、芝居の人物の間だって。
ところが幻想の方がずっと真実に迫っていたりする。
結局同じだっていうのか。なんで詩人はそうまで変わり者が好きなんだ。
相通ずるところがあるからだ。
人生に背を向けているからだ。
違う! 好きなところだけを取り上げるのだ。
あるがままの人生を受け入れるのが人の道だ。
…… あるがままの人生か。私は四十年以上それを見てきたんだよ。人生の、あるがままを。…… 苦しみ、悲惨、残酷。万物の霊長の嘆きを、ありとあらゆる声を聞いてきた。
街にはボロをまとった人々の呻きが溢れている。私は兵隊であり、奴隷でもあった。戦友は戦死したりあるいはムチ打ちの刑でじわじわ殺された、アフリカでのことだが。そういう者はみんな人生のあるがままを受け入れたのだ。文句も言わず、そして絶望して死んだ。手柄も立てず、勇ましいいまわのきわの言葉もなく、その目にはただ、戸惑いのみがあった。なぜだと問いかけていた。その疑問も、なぜ死ぬのだでは決してなかった。なぜ人間らしく生きられなかったかだ。
この世の中まともなことなどあるもんか異常なことばかりではないか。それならいっそ夢に身を委ねて生きるのが利口ってもんじゃないのか。妙に突っ張って正気で通そうとするやつこそ異常だ、正気の沙汰じゃない! それに常軌を逸しているほうが、型に押し込められずよっぽどあるがままの人生を送っているよ!
♪ 我はドン・キホーテ
舞台代わって、ラ・マンチャのある農家…… 明かりを! その屋の一室、そこにドン・キホーテと称した男が、横たわり、今やもう、生死の境を彷徨っている。
(目覚めたキハーナ老人が遺言を記録させていると表から騒ぐ声が)
何です、何ごとなの!
あれは宿屋のアバズレだ!
あの人に会わせてよ!
面会謝絶だ!
よい、通せ!
こんな女に会っちゃいけません!
私の家だ、そんな無礼は許さんっ
…… こっちへ来るがよい。
何の用かな?
見覚えがない?
誰かな?
アルドンサよ。
…… 申し訳ないが、その名前には思い当たるところがない。
騎士どの、思い出して!
どういうことだね、騎士どのとは。
あなたはドン・キホーテです。
ドン・キホーテ…… あなたには悪いが、夢やら幻想やらがごっちゃになってな。おそらく、あなたにも会っているのだろうが、思い出せん。
さあこっちへ。
お願い、思い出して!
それほど、大事なことかな。
大事です。命と同じくらい。あの時のあなたは、違ってましたわ。話しぶりも…
あなたと話したのか。
あたしを見つめて、別の名前で呼んでくれましたわ。ドゥルシネーアと。
♪ドゥルシネーア
…… するとあれは、夢ではなかったのか……
夢のことも言いました。夢は、クエストだと。
クエスト?
冒険の旅だとか。戦いに勝とうと負けようと構わない、ただその、クエストさえできればと。
他に、何と言ったのだ。教えてくれ……
(「見果てぬ夢」を語りかけるアルドンサ)
夢を、見果てぬ夢を追い …… あなたの言葉ですよ?
強敵に、敢えて挑む …… 憶えていません?
耐えがたい、哀しみにも耐え …… 憶えているはずです!
往こう、勇者も避ける道を
正せ、正せぬ悪を、正せ
…… そう!
清く、純なるものを愛し
…… そう!
両の腕疲れ果てようともなお、届かぬ星を目指し手を差し伸べよ!
…… 思い出してくれたのね……
姫君、あなたがひざまずいてはいけません、ささ立って。
でもあなたはご病気でしょ?
病気? 遍歴の騎士が病などに負けるものか! 私は無敵だ! たとえ倒れてもすぐさま立ち上がり、正義の刃かざして悪と戦うのだ! …… サンチョお!
はいっ! 控えております!
剣を持て! 馬引けぇ!
また冒険をやるんですか。
冒険だ! 諸国遍歴だ!
♪ 我はドン・キホーテ(3人で)
(歌の途中でくずおれるドン・キホーテ)
旦那さま!
騎士どの……
(門前。キハーナの騎士道本が次々と運び出され火にくべられている)
亡くなられた。わしの旦那様が……
人は死ぬのよ。いい人らしいけど、あたしは知らないわ。
でも会ったじゃないか。
ドン・キホーテは死んでない。これだけは信じて。信じるのよ……!
駄目だよ、アルドンサ。
…… ドゥルシネーアよ。 (歩み去る)
(轟音と共に降りてくる吊り階段が舞台装置を押しつぶす。重々しい足取りで降りてくる刑吏たち)
宗教裁判所の権限を持って、カトリック教会に対し冒涜の罪を犯したかどにより、次に読み上げる姓名の者を、宗教裁判の責に於いて裁くものとする。ドン・ミゲール・デ・セルバンテス!
…… どうだ、売れっ子の被告だろう。ここの裁判の告脈もつかないうちに、もうお呼び出しが掛かった。さて、ここの判決は、どうかな?
(牢名主、左右を見回し、皆が頷くのを確かめて)
まあな。大体のことはわかった。あの中身な、(セルバンテスの原稿を手に取り)…… フーテン騎士の、一代記だな?
書けるだけは書いてみたが。
堂々と読んでやれ、ここでやったようにな。そうすりゃ無罪だ。
私も火あぶりになるつもりはない。
(去りかけるセルバンテスと召使い)
セルバンテス! …… さしずめドン・キホーテは、お前さんの兄弟分だな。(帽子を脱いで一礼する)
いかにもそうだ。ふたりともラ・マンチャの男だからな。…… 私だけのためにドン・キホーテは生まれた。私の分身だった。だが諸君にゆずる。…… では行こうか。
(湧き上がる「見果てぬ夢」の歌声の中、階段を登っていくセルバンテス)
終幕