春は心が休まりません。だって次から次へと野山の花が咲いては散るのです。家に籠ってなどいられない。ああ、仕事をしていた頃は年で一番多忙な時期で、どれだけ悔しい思いをしてきたことか。もう誰にも迷惑はかかりません、さあかつてのフィールドを巡ろう。
で、今日のここは本当に三十数年ぶりに足を踏み入れる冷温帯の原生林。自然観察者にはそれなりに知られた場所でしたが、手前の民家まで舗装された道には一面にカエデの花が散っています。ヒトの踏み跡もタイヤ痕もありません。とうに人跡は絶え、ヒトの生活は消えているようです。
森を潤す沢の入り口にはマダケやコクサギが茂り、かつてここで暮らす人が行き来した道はありません。本当に、誰も訪れない森になっているようです。
でもやぶを迂回してみればそこはかつてのままの静謐な森でした。さあ進みましょう。
かすかな道の痕跡を辿ります。当初はウワバミソウが目立ちましたが
やがて林床は一面にバイケイソウで覆われて、そこにエンレイソウ類が混じるようになりました。
類と書きましたが、少なくとも花を付けているのはムラサキエンレイソウばかり。これはミヤマエンレイソウ(シロバナエンレイソウ)の一品種だとか。
ただし実はミヤマの朽ちかけたものだという説もあって私にはよくわかりません。ただかつては普通のエンレイソウとミヤマエンレイソウの混生地でした。
やがて現れる折れた巨木。これは覚えてます、トチノキです。大量に落とす実がこのあたりのアカネズミたちの貴重な冬の食糧でした。転がる太い幹はすでに朽ちかけて、寿命を終えたのはだいぶ昔のようです。この地の生態系の中心にあった木。ネズミたちはどうなってしまったろう。
さらに緑の回廊を進みます。かつての道は途切れつつも久しい訪問者を導き
突如林床に黄色いひと群れの花。ヤマブキソウが現れました。
人里ではすぐに盗掘されてしまうので見かけなくなりました。いよいよ森の深みに入ったようです。他の花々も目に付くようになります。
ルイヨウボタン
フタバアオイ 花はこれから。
カタクリは実を結んでました。もうすぐ地上部を枯らして永い眠りに就きます。
ツクバネソウ。いずれも珍しいものではありませんが、明らかに林相が変わりました。
やがて前方にただ一点の丸く白いもの。え、いやまさかまさか
ヤマシャクヤクだあ。
まだ固く閉じていますが、まごうことなきヤマシャクヤクです。野生のものを初めて見ました。うわあえらいこっちゃ。県指定絶滅危惧Ⅱ類。環境省でも全国で準絶滅危惧になっていて、実際に東京都と千葉県では野生絶滅しました。園芸ジジイや山野草業者、最近のメルカリ野郎に見つかったら最後です。
私がかつてこの森を訪れたのはまだ若い頃、チョウにしか興味のなかった時代ですけど、この地の生物相を理解するだけの知識を持たず、森の深さを知る感覚もなく、そもそも入り口近くで用は足りたのでこんな深みに来ることはなかった。こんな深いふところの森とは気付けなかった。ここにはまだ知らぬ何かがある、と思わせます。
さらに奥を目指します。…… さっきまで雲に覆われていた空が、何かが変わったかのように晴れ上がって森に陽が射します。
やがて彼方に巨大な影が現れました。
ケヤキです。それも一種異形な、根元から何本もの太い幹を株立ちさせた姿。こんな樹形のケヤキは見たことがありません。樹齢も何百年に達するか想像もつきません。間違いなくこの森の主です。思わず手を合わせます。
たぶん昔から地元の人にもそう思われてきたのでしょう。この森の、この沢の守り神として、あるいは何かの境界の目印として残されてきたのだと思います。欅太郎、なんて名付けられていたかも知れない。ふもとから人が消えても、木はここで役目を果たし続けます。
年古る幹に着生するシダ。いったいどれだけの生き物がこの古木を拠り所としているのか想像もつきません。
大ケヤキを過ぎたらたちまちスギの植林地になりました。ヌシはともかく、境界の目印だったのは間違いありません。植林地では生物相も貧相です。これ以上進んでも意味はない。ここから引き返しました。
そしてあのヤマシャクヤク、びっくり。陽を浴びたことで開いています。
全開とはいきませんが、恥ずかしそうに御簾を半開にする姿がかえってよろしい。
花は半開を看 酒は微酔に飲む この中に大いに佳趣あり 洪自誠「菜根譚」
全開になるのを待つのも無粋です。ここはこの姿のままで、そうだ接写しておこう。
ああ佳いものを見た。秘すれば花、という言葉もあります。この場所は秘密にさせてください。そもそも1本しかないのだから、とても楽観はできません。
今回、特に無欲というか何も目標を定めずにフィールド入りしましたが、この出合いで欲が出ました。この森はまだ何かを隠している。レッドデータで1ランク上、ベニバナヤマシャクヤクはここにないだろうか。日本全国で絶滅危惧、理由はただ一つ、園芸採取。豪奢で美しい花がジジイどもの標的になり身近な里山から姿を消しました。でもこの森ならどこかにかくまわれているかも知れません。なんて考える私は、恥ずかしながらこの森の持つ深みに囚われてしまったようです。そうまで思わせる、間違いなくここは私の探し求める「聖なる森」です。
方舟と言おうか、シャングリ・ラと呼ぶか。近年そんな場所を求めて県内のフィールドを歩いています。御岩神社のように人々の営為で守られている聖地もありますが、基本的には人界と隔絶されることで原生の自然が守られ、精霊の宿る森です。そして今日、また一つリストに加える禁足地ができました。観光地化され車で横付けできる「自然」が人気を集める一方で、山びとが減ることで人界から忘れられる場所が増え、結果として私の好きな場所は保全レベルが上がっていて、私には喜ばしい。自然すら経済活動の対象と考える方々には許しがたいことでしょうけど、私には、そして本来自然を敬い、自然と共生して生きてきた日本人の血を継ぐ人々には、こういう考えも意味があることと思うのです。
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