ふと読み返した本を二つ。思い付きです。真面目な書評は他の方のブログをどうぞ。
森の生活 H.D.ソロー
原題は「ウォールデン,または森の生活」。1854年の出版いらい,世界中の知性ある真面目で心優しい多くの若者の人生を狂わせてきた悪魔の名著です。著者 ヘンリー・デイヴィッド・ソロ-(1817-1862)はすっかり神格化されて現在では作家・思想家・詩人・博物学者・環境保護運動家などと紹介されますが,存命中は過激で行動的な社会活動家で文筆家,というのがせいぜいじゃないのかな,一度も定職に就かなかったっていうし。生前に出版された著書はこの本を含めて2冊だけだそうです。ガンジーやキング牧師にも影響を与えたとまで言われます。すげえな。
「森の生活」はそのソローが20代の終わりごろ,自然保護運動の一環としてウォールデン湖のほとりに小屋を建ててそこで暮らした日々の記録です。最初の章「経済」でその「家」を建てるのに要した費用,さらには日々の生活での収入と支出が記され,ほらたったこれだけで家が持てるんだよ,これだけのお金で生きていけるんだよとまくしたてます。こらこら,そんなこと言うから世界中の若いやつらが真似するんだってば。
以後の数章で描かれるのは人間の愚行に対する痛烈な批判と,湖畔に展開する美しい自然の描写。ユーモアに欠ける,時に攻撃的な文章は,日本にも数多い信奉者の皆さんには悪いけど,発達障害入ってるんじゃないのこの人,と私には思えます。ただし過激な物言いながら本人は徹底した非暴力,非差別の平和主義者。しかも行動が伴うというまさに革命軍の先頭で旗降って歩いてるみたいな人です。
「死と再生の神話」とまで評される本書の,小屋を建てた夏に始まり秋,冬と続き春に終わる構成は見事です。自然の清澄さと,その自然を私物化し破壊し利益を得ようとする俗人たちへの批判が繰り返されます。ああ,私が書きたいのもこんな文章なんだよな,と思いました。書いたところで今となっては単なる追随者ですけど。
ツっこみどころはありますよ。八畳間ほどの室内にあるのはベッドと机と暖炉だけ。トイレは?キッチンは?風呂は?洗濯は? 生活感が足りない,というかどうしていたのか想像したくない。それにそこは生まれ故郷ボストン近郊コンコード村,実家が村内にあるんです。行き来がなかったはずがない。しかも生活の期間は2年と2か月にすぎません。
それでも,この本が訴える強烈なメッセージは揺らぐことはありません。最初に書いたように,知性ある真面目で心優しい若者が読んだなら,自分もすぐ行動しなきゃと思わせてしまいます。
ヘンリ・ライクロフトの私記
G.R.ギッシング
こちらは創作物です。ある個人の田園生活をつづった手記という体裁をとります。
描かれたひと,ライクロフト氏は作者が強く投影されたイギリス紳士です。売れない物書きとして長くロンドンに暮らし,貧窮を極め,人生の辛酸を舐めつくしました。ところが50歳のとき突然富裕な知人から年金の遺贈を受け,大金を支給される身分となりました。氏はさっそくロンドンを引き払い,南イングランド・デヴォン州の片田舎に隠棲して,四季の移り変わりを楽しみながら読書と思索にふける理想の生活を送り,5年後に静かな死を遂げます。ファンタジーです。イギリスの教養ある中産階級がこうしたいと考える夢をすべてかなえたファンタジーです。隠遁者の随想と見れば『方丈記』や『徒然草』といった随筆文学に通じるものとも言えます。
作者はイギリスの小説家 ジョージ・ギッシング(1857-1903)。この本は44歳の死の直前に出版されています。ライクロフト同様に売れない小説家でした。生涯貧乏で,頭脳明晰でありながら本人の破滅的性格もあって幸福からは程遠い人生でした。肝心の小説も,ユーモアを解せず人の心の機微を描けないというのが致命的で,評価されることはなかったといいます。作中で「イギリスを離れた遠い異郷で死ぬ,などと考えただけでもぞっとする」なんて書いておいて最期の地はフランスだったり,もう救いようがない。本作はそんなどうしようもないギッシングが,自分より十歳年上のライクロフト氏にすべての希望を託したものです。哀しいなあ。
しかし描かれた日々の自然は美しいの一語に尽きます。ヒバリの声で目覚め,日課の散歩で季節を追って次々と咲く花々を楽しむ。清廉な個人主義者,というのもしっくりきます。文章も,前出の「森の生活」より私に馴染みます。いきおい抜き書きも多くなりました。
「自ら好んで都会で日夜をすごしている人々,客間に集まって無駄口をきき,料理店で馬鹿騒ぎをし,劇場のぎらつく光の中で汗をかいている人々がいると思うと,私はちょっと異様な感じがする。彼らはそれを称して人生という。享楽ともいう。いかにも彼らにとってはそうだろう。彼らはそういう風にできている。彼らがその運命の通りに生きているのを不審に思う私の方が愚かなのかも知れない」
ああ,こんな文章を自分で書いて,いま都会でコロナを広げている連中に読んで聞かせたいぞ。
どちらの作品にも,たくさんの生物名,特に植物名が頻出します。翻訳者泣かせです。翻訳者はたぶん学名まで調べ,同種で日本語の和名があるならそれを使い,属が同じで見た目も類似なら便宜的に和名を当てはめ,ない場合は創作し,あるいはイメージできそうなら英名を使います。キンポウゲ,ヤナギタンポポ属(ライクロフト氏がこだわった),ヤマハハコ,クマシデ,ニセニレ,レンタカンバ,ハードハック,などなど。遠い異国のお話なのに,おかげでそこに広がる植生をイメージできました。
いずれも日本では明治維新のころの作品です。互いに根本的に異なる思想で書かれています。なのに今でも世界中で,もちろんこの東洋の島国でも愛読されてます。いつの時代にも,どこの国にも,季節の移ろいを愛する人がいることの何よりの証拠だろうと思うのです。
ソローとギッシング。ともにおカネを積むことで他人から供給される享楽にはなんの価値も見出しません。おのが心の赴くままに日々の自然を賛美します。私はそんな価値観に共感します。きっと,私のブログの読者さまにもそういう方は多いのではないでしょうか。空を渡る風,季節を告げる花々,自然の懐に隠された美しい謎。何を美しいと思うかはそれぞれでも,一般社会では市場価値を持たないものにこそ人生の真実があると信じられるひと。聖人君子である必要はありません。ただひとつ,自然に相対するときのルールとして,自分の中に越えてはならない一線を持っていることだと思います。
改めて読んで,自分の文章の自然描写の浅薄さを知らされました。精進いたします。
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