少し前のお話。ブログに積み残していたネタを消化させてください。
11月、老親まで連れて松島へ行ってきました。でも松島の観光案内はしません。
今は水戸から常磐道一本で行けます。途中に見える福島の風景、かつての沃野がセイタカアワダチソウに埋もれた帰還困難地の風景はいつ見ても胸が痛みます。高速道から原発は見えませんが、空の幾筋もの高圧線が束ねられていく様からだいたいの方角がわかります。そうかあのあたりか、と。
これが元・仙石線野蒜のびる駅。あの津波のとき、駅員さんの判断で屋上まではしごを掛けて多くの人が救われたそうです。すぐ目の前が野蒜海岸。覚えておられますか。たくさんの人が打ち上げられた海岸です。ここ東松島市全体で千人以上の方が犠牲になりました。
今は東松島市の震災復興伝承館として、あの日のことを語り継いでいます。
仙石線は高台に移されましたが、ホームと線路はあの日のまま。
奥に見えるのが今の野蒜駅。
屋内展示写真の一つから目が離せなくなりました。手前に写る扇形の建物、かつての「かんぽの宿松島」です。屋上に逃げた百人以上の方が救われました。実は震災の遥か前に、家族旅行で泊まったことがあるんです。従業員の方に親切にして頂いたのでよく覚えています。救われた方々からは建物を保存する声も上がったそうですが、今はもう土台が残るのみ。
命の危険に晒された方、近しい人を亡くされた方、その後の苦難を乗り越えた方、そんな方々の手記を読むたびに胸が詰まります。きっと読解力ある私の読者の皆さまであれば、強く共感もして頂けるでしょう。…… 京都五山の送り火で東北の薪を燃やして被災者を元気づけようという計画が進んだのですが、取るに足らない微量の放射能を騒ぎ立てる人がいて直前に中止となりました。東北の人はどれだけ傷ついたことでしょう。西の方には、この震災を他人事のように感じている人もいるようです。ああウチでなくて良かったと。ぜひ現地で震災遺構の現物を見ていただきたいものです。ちなみに私は、この時の京都人の仕打ちを死ぬまで忘れません。忘れてやるものか。
ごめんなさい、つい感情が高ぶりました。同じ東松島で楽しいものも見て参りました。ここはあの日本の誇り、ブルーインパルスのお膝元です。あ、この日は岐阜の航空祭に出張っていて不在ということも知ってました。目的は別です。
航空写真家・黒澤英介さんのお名前をご存じでしょうか。ブルーインパルスの公式写真・パンフレット・ポスター・カレンダー、その写真の隅に当たり前のように「Eisuke KUROSAWA」の名があります。ほとんど専属のカメラマンと申し上げてよろしいでしょう。
旧野蒜駅の並びに奥松島クラブハウスというものがあって、そこが黒澤さんの写真常設ギャラリーになっているのです。そして事前情報でこの日は黒澤さんがご在館だと。
気さくに記念撮影にも応じて頂けました。背が高くて、笑顔から誠実さと温厚さがにじみ出るような紳士でした。現場で真面目な汗を流したヒトのみがこういうお顔になれることを私は知ってます。このブログを知らない家族の手前掲載の許可を頂いてないので目線を入れますが、ネットで引いていただければお顔を拝することができて、たぶん私の物言いが正しいと感じていただけると思います。
写真集はもちろん全国の書店や通販で手に入りますが、ここで買えばサイン本ですぜ。
こんな「写真を写した写真」ではなく、ぜひオリジナルでお楽しみください。ブルーインパルスの大技を、地上からはもちろんT-4の後席でGに振り回されながら写し取った作品の数々は、ヒコーキ好きの方々にはたまらないでしょう。
このクラブハウスには食事処もあります。海鮮丼おいしゅうございました。
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