ジノ。

愛と青空の日々,ときどき【虫】

ダイダラボウを見上げて土偶さんと写真に収まり、企画展の須恵器を味わう

 


 はいこれは水戸市郊外、大洗街道から少し入ったところにある大串貝塚ふれあい公園内、埋蔵文化財センターです。

 


 一時期流行った、わざと壊れたふうの造り。

 


 上から見ると面白いのよ。

 

      
 何しに来たかと問われれば、何もないと答えます。諸般の事情で、しばしここらで時間をつぶす必要があったのです。そうだ久しくダイダラボウを見てないな、なんて。

 


 うしろすがた。

 


 どーん。伝説の大巨人ダイダラボウ。

 


 縄文いちの色白イケメンだあ。首の下が展望台になってます。

 


 基壇内部の「土偶の部屋」が大好きです。

 


 みみずく型土偶ハート形土偶遮光器土偶。有名どころが手ぐすね引いてあなたをお待ちしております。小さいお子様は泣くか喜ぶかどちらかです。

 


 土偶さんとたっぷり遊んで出てみたらこんなポスターが。

 

         
 MADE IN ABOKKE。先程の文化財センターで企画展をやっている。帰りにお寄りしましょう。

 


 でも今日は時間があるので、台地上のダイダラボウ像を出て、斜面を下ってみます。

 


 ここにあるのが国指定史跡「大串貝塚」。大量の貝殻が層を成している理由を、今から千六百年前に「風土記」が編纂された時代の人はもう知りませんでした。そこで台地に座って5キロ先の海まで手を伸ばせば届く、そんな大巨人が創造されました。この巨人、大穴掘ったり山を動かしたり大活躍です。こんな壮大な昔話が伝わるのも、写本ながら「常陸国風土記」が残されたから。全国で残された風土記は五つのみ。

 


 貝塚の前にある田んぼ、縄文時代はここからが海でした。何のことはない、縄文人が海で獲って食ったハマグリとかの貝殻を浜辺に捨てていただけの話です。水戸から大洗にかけての那珂川沿い、長さ5キロ幅3キロの大水田地帯は、氷河時代に蛇行する那珂川が刻んだ谷でした。その後の温暖化による「縄文海進」でここは穏やかな内湾になり、縄文人が海の幸をアテに暮らしたと。

 

        
 いかんいかん、考古学の話になるとついアツくなる。今日はこの道を行ってみましょう。かつての浜辺です。古代の海岸をそぞろ歩くことを妄想しながら。

 


 と、いきなり空気が変わりました。ウロのくくれたスダジイの古木に囲まれました。怖い怖い。

 


 道が神社の境内に続いてました。折居大明神? 調べたら、今は折井神社と呼ばれるようです。なかなかの神域です。歩いたからこそ行き着けました。歩けば必ずどこかに至る、道は知識と知識、文化と文化を結ぶ線であるなあなんて。

 


 ところでこの神社の建つ敷地、こんなです。丸い砂利でできてます。ここがかつて那珂川の自然堤防だった名残り。低湿地でも古くから集落があるのはこうした安定した土質の場所で、地震の際も液状化しにくい。昔の人の経験から来る知恵です。最近の開発業者はそこまで考えているでしょうか。那珂川沿いの田んぼに次々と住宅が建っていくのを少し心配に思っています。

 

      
 なんて考えながら周辺を一周して埋蔵文化財センターに戻ってきました。さあ企画展だ。

 


 受付嬢は例によってあの埴輪娘。

 


 常設展示は以前にご紹介した気がするので今日はやめときますね。うん一度記事にした記憶がある。記事の数が750を超えて、もはや何を書いたか思い出せないんだよなあ、特に最近。

 


 アボッケと聞いてすぐさま 木葉 という漢字が浮かぶならあなたはすっかり水戸通。…… いないかそんな人。アイヌ語由来と言われる水戸西部の地名です。小松左京の「日本沈没」にも出てきます。

 


 江戸時代に金山があったとは知っておりましたが、その遥か以前に須恵器を焼く窯が並ぶ窯業地帯だったと。へえ。

 


 これも以前記事にしましたけど、奈良・平安時代、市内の台渡里という場所にこの那珂川流域を治める役所(官衙かんが)と塔を備えた大寺がありました。木葉下の須恵器はそこに供給されたのだと。へええ。

 

             


 考古学者になる人生もあったのかなあ。考古資料を見るたびにそんなことを想います。お付き合いありがとうございました。

 

 

 

 

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