いつものフィールドの芝地に,8月も後半になると黒衣の戦士が現れます。体長だけなら小型のスズメバチに匹敵。細く黒い矢のようなボディ。白化粧した顔に漆黒の大きな眼,強圧的な大あご。糸のように細い腰はあらゆる方位に毒針を繰り出す砲のターレット。名をクロアナバチといいます。素早く飛んで身を伏せて,夏の終わりの黒忍者。
このハチは,出現するとまずトンネル穴を掘ります。掘りまくります。一か所に3つ。掘り出された赤土がとんでもない量なので,穴のありかが遠くからでも一目瞭然です。労力もさることながら巣がこんなに目立っておい大丈夫か。
なぜ穴3つかというと,敵に対する偽装工作なのだそうな。そして最凶の敵にはまったく効果がないのだそうな。なんというか,所詮はムシですねえ。
クロアナバチ。ファーブル昆虫記を読んだ諸兄にはおなじみの「狩人蜂」の一種です。けっこう神経質で,顔を近づけると疑似攻撃を仕掛けてきますが,ファーブル先生の教えを知っているから別に怖くはありません。その決死の威嚇に敬意を表して一歩下がってあげますけど。
狩人蜂の毒針は「麻酔」用。毒はないので刺されてもそれほど痛くないのです。彼ら,いや狩りをするのはメスなので彼女らは獲物の中枢神経を刺して自由を奪い,産み付けられた卵から孵った幼虫はエサとなった昆虫を生かしたまま食べていきます。母バチはたった一人でそれぞれの子にエサと個室を準備しなければなりません。いちいち近づく外敵に本当の攻撃を仕掛けるなんて危険なマネを晒していたら子孫なんか残せません。そこは自分でよくわかっているのです。ムシでも賢いか,やっぱり。
さて穴が3つ掘れたらハチは狩りに出かけます。クロアナバチの獲物は主にツユムシ。草藪の中でハンティングを済ますと,自分の体長とほぼ同じ大きさの獲物を大あごでつかんで芝の上を引きずっていきます。3つ開けた穴のうち真ん中だけが本物の産室。もはや動けないツユムシは虎穴へと運び込まれ,哀れハチの卵が脇腹に。母バチはそこまで済ますと穴を塞ぎ,次の穴掘りシークエンスに入ります。クロアナバチの母親は,こうして晩夏の2か月間を穴掘り・狩り・産卵サイクルに費やすのです。卵から孵ったハチの幼虫はまず獲物をかじって体液をすすりウォーミングアップ。その後は脂肪組織や消化管など眠り続ける獲物の命に関わらない部分を食べながら大きくなり,最後に一気に食い尽くして蛹になります。ハチの姿をまとった子供たちが地上に現れるのは次の夏。命は引き継がれていきます。
天敵。天が定めた敵,というわけですか。昆虫の世界では大抵の種に天敵が定められていて,しかもその天敵には抗えないという定めがあります。わかっていても食われるしかない。さらに多くの場合,その天敵は寄生性です。オオスズメバチの腹に寄生するものまで存在します。クロアナバチの場合,鳥やクモやカマキリに捕食される以外に,この産室を狙う天敵がいるのです。
警戒しています。自分がロックオンされたことに気づいています。狙っているのはこいつ。寄生バエの一種です。
ハエ・カの仲間「双翅目」は昆虫の中で最も進化したグループ。彼らは先に地上に現れていたすべての生物をエサとして進化しました。哺乳類,他の昆虫類,被子植物,地上にあるすべての高度な生命をターゲットに驚くべき生活史を作り上げた一群で,特に寄生性の種の巧みな戦略は調べるほどに恐怖すら感じます。
そして今このクロアナバチを狙っているのは,ハチの獲物の横取りを目論む夜盗のような輩。ハチが獲物を産室に運び込んだところで,その入り口にそっとウジを一匹生み落とします。ウジは自力で奥に横たわる産卵済みのツユムシまで這って行き,すべてを食い尽くします。そしてハチの母親が我が子のために用意したこの土中の暖かな部屋で眠りに就くのです。そう,また外の世界にクロアナバチが現れ,自分たちのためにせっせとお仕事を始めるその季節まで。
クロアナバチはこの恐るべき天敵の存在に気付いていて,自分が追跡されていると知るやただちに警戒態勢に入ります。まっすぐ巣穴に向かわずに,時折獲物を地上に置いて周囲を睥睨し,時に寄生バエに飛び掛かります。寄生性の天敵にここまで能動的に対処できる昆虫はなかなかありません。しかし相手は翅が2枚の,昆虫界随一の飛行巧者(翅は少ないほうが効率が良い)。スピードも小回りも勝負にならず,瞬く間に撒かれてしまって,ハエは何事もなかったかのように元の位置に戻ります。
それ以上観察はしていませんが,多分最後にはハチが諦めて獲物を運び込み,寄生バエはまんまと横取りに成功するのでしょう。これはこれでなかなかに悲痛なものですが,自然の営みに人間の干渉はむしろ有害です。これもまた天命なのです。
さてクロアナバチは,こうして降りかかる様々な災難と闘いながら晩夏を働き続けます。捕食や病気に遭わなかったとしても,一体どれだけの子孫を残せるものでしょうか。昆虫は通例,途中の死亡率の高さを勘案して数百個の卵を産むものですが,クロアナバチの場合はそんな数は無理でしょう。まあ私が心配することではありませんし,毎年たくさんのクロアナバチがこのフィールドを飛び交っていることを思えば,いろいろとうまくいっているのでしょう。
9月の終わり,ふと立ち寄った野原で,クロアナバチの亡骸を見ました。
生きている時の精悍さそのままに,それは灯台のように高く伸びたヒメムカシヨモギの花穂に引っかかっていました。欠損もカビの菌糸も付いていないので,自然死なのでしょう。
この女戦士……いや母親は,ひと夏を生き抜き,戦い抜きました。寄生バエや巣穴の崩落を運よく逃れて夏の陽光下に這い出して以来,産室を掘り,ツユムシを狩り,寄生バエに怯え,産卵し,カマキリの鎌や鳥の襲撃をかいくぐり,その繰り返しの果てにとうとうゴールへと行き着いた。その姿には死への恐れや悲しみ,短い人生への恨みや後悔など微塵もありません。ただただ生き抜いた誇り,務めを果たした満足に満ちていました。ふと思います。この死に場所は,彼女が自ら選んだのものではないかと。彼女は自らの死期を悟った時,自分がひと夏を戦い抜き,いま子供たちが生をはぐくむこの野原を一望できる高みに,最期の翅を休めたのではないかと。
一匹のハチを見て思うのです。私はこれほど一途に生きてきたでしょうか。いつか来るその日に,これほど満足な貌でいられるでしょうか。
よろしければ 秋の終わりのものたち 【虫】 - ジノ。 も併せてご覧ください。