8月某日朝。
寝室の網戸まで開けてふとんを畳んでおりますと、ぶぶぶぶと重い羽音が。スズメバチです。軒下で8の字を描いてから、部屋の中まで入ってきました。ぐるりと旋回、小市民が細細と暮らすこの家を値踏みするように見回すと出て行きました。なんだありゃ。ちょっと不愉快。
スズメバチ自体は珍しくありません。昆虫の豊富な我が庭は連中の狩場です。でも今日の行動は何か変。軒下も、部屋の中にも、彼らが餌とするようなサイズの昆虫はいません。はて。
ところがこれで終わりません。今のは東向きの寝室でしたが、同じ2階で北向きの書斎に戻りまして、風がよく吹くので網戸にしておきましたところ、ここにも来ました。ぶぶぶぶとまず軒下を確認し、部屋の中に入ろうとして何度も網戸に衝突してから去っていきました。
さらに翌日。また寝室でふとんを上げていると来やがりました。しかも時間差で2頭。ぶぶぶ二重奏。2頭目はあろうことか、私の存在に気付くと威嚇、もしくは攻撃行動とおぼしき突撃を敢行してきました。枕で弾き飛ばしてやったのですが、この状況は何かおかしい。
書斎に戻ります。こちらも数が増えてます。入れ替わり立ち代わり、次々とぶぶぶがやって来ます。軒下を品定めし、網戸に体当たりし、さながらしつこい脅しをかけるように、包囲網を縮めるように。庭から観察すると、ハチは2階をぐるりと巡りながら軒下と窓をチェックしています、次々と。何だかわからないけど、明らかに良からぬ状況が進行しています。
攻撃は最大の防御。
ハチを目にしてから3日目、マグナムジェットを傍らに置いて書斎で読書。ぶぶぶぶとやってくる敵を網戸の内側からバズーカで一撃。吹き出す毒霧を食らったぶぶぶは一旦弾けるように飛びあがり、弧を描いて落ちていきます。半日待ち伏せて、5頭に有効打を与えました。
墜ちた1頭を発見、キイロスズメバチです。
死してなお毒針をかざすこの闘志。スズメバチとしては小型種ですが、はてさて何を企むか。…… 調べたらいろいろと大変なことがわかりました。
キイロスズメバチ
・体は小さいが攻撃性は極めて強く、巣に数メートルまで近づくと刺される。
・巣は巨大で直径1メートル、重さ10キロになることも。働きバチの数も秋口には400頭に達する。
・営巣場所の選択に柔軟性があり、小型で敏捷なので様々な小昆虫を餌として利用でき、空き缶のジュースや捨てられた魚肉も栄養源にできるなど、適応力が高い。
・天敵はオオスズメバチ。ゆえにこれがいない都市部では優位。
・近年の都市域でのハチ刺傷事故の主な下手人。
・毎年1つの巣から1000頭もの新女王が生産される。
・働きバチが増えて春に創設した巣が手狭になると引っ越しをする。家の軒下に作られる巨大な巣はたいていこのキイロスズメバチのセカンドハウス。多くの働きバチが一斉に作るのでごく短期間で完成する。
・引越し先は働きバチが見つけたいくつかの候補から選定される。
…… って、おいおいおい、これだよ。
我が家の2階の軒先が候補に上がっていたのです。日に日にハチが増えたところを見ると、かなりの有力候補として。どうでぃおめえら、ここがうちらの新しいヤサになるんだぜえ。アネさんもさぞやお喜びになるだろうよ。…… 女王様に来られていたら手遅れでした。危なかった。
1つ良かったこと。ミツバチは良いエサ場を見つけると、巣に戻って仲間の前でダンスを披露します。そのダンスにはエサ場の方向と距離の情報が含まれていて、それを見た巣の働きバチは一斉にエサ場へと飛び立ちます。生物学者フリッシュが野外で見出した驚くべきミツバチの知恵でした。しかしスズメバチにこんな知恵はない。フェロモンを使う以外は、働きバチが各個に見つけて各個に対処するだけです。今回来るハチの数が増えたのも、単に多くのハチの目に付いたからと解釈できます。ということは、目下の危機回避手段として有効なのは、来てるハチを 皆〇し すべて亡き者 にすること。
窓際の待ち伏せで5頭、庭を徘徊していたのを2頭。これで現時点の偵察隊を全滅させました。巣が作られ始めたらシロートでの対処は不可能でした。やがてうちの軒下に巨大なスズメバチの巣がぶら下がり…… ああ、本当に危なかった。
まだ油断はできません。敵の本拠地は無傷だし、実は1週間経った今朝、また新たな偵察のハチが来て、これは討ちもらしました。警戒は続けねばなりません。自宅警備員に安らぎの時はない。
今回のキイロスズメバチ、その天敵は巣を襲うオオスズメバチ。オオスズメバチは環境選好性が強いので、都市部にはいません。では天敵のいない環境でキイロはやりたい放題か。いいえ、実はもっと怖い敵がいるのです。それは… おわかりでしょうか。そう人間です。都市部で巣が見つかれば、たちどころに駆除されてしまいます。自慢の毒針も効かぬ防護服に身を固めた巨大な敵が、化学兵器を振り撒きながら巣を破壊して一族を全滅させるんです。大切な女王も、次代に命を繋ぐ新女王も、1万もの巣房でエサをねだる子供たちも、みんな灰塵に帰してしまうのです。ただ生活をしていただけの彼らにしてみれば、理不尽なことでありましょう。
人を刺さない限り、ハチは益虫です。実際に、アシナガバチの増えた我が庭では、夏の間はアゲハチョウやオオスカシバの害は微々たるものです。食物連鎖の上位にいるスズメバチもまた、この生態系の平衡を保つのに大きな存在であるはずです。
人間の世界を護りつつ、他の生物に配慮する。繰り返されるこの命題に絶対解はありません。スズメバチに興味をお持ちの方、もしご存じなければ中村雅雄さんの著作をお薦めいたします。数十年間、小学校の先生をしながら千を超えるスズメバチの巣に挑み続けハチとヒトとの共存の道を求め続けている方です。こういうフィールドに立ち続けた人の言葉には人生の真実が込められていると、私は思っています。
↓ ハチという生き方。