ヒオドシチョウ
久しぶり,奥久慈の男体山に登ってきました。
水戸から見た男体山
茨城県北部,久慈川の流れる山峡に男体山という山があります。このあたり,1500万年前の海底火山地帯で,火山の活動に前後して断層活動が起こりました。これが棚倉たなぐら断層。断層は長く隆起を続け,ついに400メートルを超える巨大な壁を作り上げます。その断層崖の上端のひときわ高い654メートルのピークが奥久慈男体山。日光の男体山には姿も高さも遠く及びませんが,急峻な地形ゆえ人手が入らず,貴重な植物の宝庫となりました。私は天空の楽園と呼んでます。
山頂の祠
読者の皆さんに何か気の利いた花の写真を,と登ってきたのですが,ちょうど花の端境期で咲いているのはニシキウツギくらい。当てが外れたな,と思いながら山頂に至ると。
バタバタと大きな羽音が飛び交います。たくさんのチョウが頭上を右に左に大騒ぎ。こういう山の見晴らしのいい頂は,よくチョウが集まります。多分,ほとんどがオス。ここはチョウのオスたちが男を競う場なのです。
チョウのオスは突き出した枝先などに静止してパッと飛び立ってはまた戻るという行動を繰り返します。テリトリーを主張する「占有行動」と言います。自分のテリトリーをずっと飛び巡る「蝶道」をつくる種類もあります。いずれも共通するのが,他の飛ぶものに出会ったとき。それを侵入者と判断して激しく追い回し,テリトリーから追い出します。これを「追飛」と言います。相手が自分より大きかろうが構いません。ものすごい闘志で追撃します。なんやワレやんのかコラはよ去ねわーれー。翅の力の強い国蝶オオムラサキなど,天敵のはずの鳥さえ追い回し追い払ってしまいます。そりゃいきなり得体の知れないのがバタバタとものすごい音を立てて迫ってきたら逃げますよね。反撃に出られる危険だってあるはずですが,縄張りを守るためなら命など惜しくありません。なんというか,バカですねえ。オスってそういうものなんです。
いるわいるわ,あらゆる種類のチョウの大乱舞。アオスジアゲハ,クロアゲハ,カラスアゲハ,キアゲハ,モンキアゲハ,キマダラヒカゲ,スミナガシ,ルリタテハ,アカボシゴマダラ,コミスジ,あげくに小柄なダイミョウセセリやルリシジミまで。大小さまざまのチョウがバタバタと羽音を立てて飛び交うさまは壮観です。虫好きにとって,まさに天空の楽園。
その中に一頭,やけにボロボロの翅で大きなアゲハまで追い散らしているのがいます。
ヒオドシチョウ……?!
これは以前に同じ場所で撮った,羽化したてのヒオドシチョウ。緋縅ひおどしというのは「緋色の緒通し」,鮮やかなオレンジ色のひもで組んだ鎧を指します。このチョウ,オレンジ色のみならず翅の青い縁取りも美しく羽ばたきも力強く,私の好きなチョウです。でもボロボロ。
ヒオドシチョウが羽化するのは5月末から。低地のエノキなどが食樹ですが,羽化すると生まれ故郷を離れ,その飛翔力にモノを言わせて山の稜線に集まります。しばらく活動した後夏には休眠に入り,そのまま冬を越し,翌春活動を再開します。早春の日差しの中で恋をし,産卵します。
というわけでもう繁殖の季節は終わってます。このオスもどこぞの彼女と恋を済ませ,そのメスは下界で産卵も終えているはず,というかそろそろ次の世代が羽化するころです。ヒオドシチョウの父ちゃんは,その気があれば立派に蝶になった我が子に会うことができるのです。昆虫界では極めて異例の生活史です。父ちゃんあんたの子だよって。
でも漢おとこである父ちゃんはそんな甘っちょろいことはしません。山頂には敵が待っている。この栄光の頂を他人に渡すわけにはいかないのです。父ちゃんの戦いざま,よく見とけ! 永い眠りから目覚めてずっと,本来の目的である繁殖を終えてもなお戦い続けます。不毛だなあ。漢だなあ。
ある朝,彼は自分が飛ぶ力を失ったことを知ります。昨夜の嵐で翅がとうとう限界に達したか,翅を動かす筋肉のエネルギーが尽きたか。しかし彼から闘志が失せたわけではありません。飛べないからとこそこそ逃げ隠れもしません。みるみる消えゆく膂力,掠れゆく視界。それでも空が見える場所まで一歩一歩這い出ていくと,前を見据え,蒼天を仰ぎ,他のオスたちの今日の戦いを睨みながら,静かにこと切れていくのでしょう。何の後悔もありません。
擬人化しすぎましたか。でも我が読者足る皆さん,これぞ男の生き様だという私の主張にうなずいていただけますか。オスの本質は,性が分化した天地開闢の昔から何も変わってはいないのです。